2009年12月04日

日比谷公園にある松本楼

日比谷公園にある松本楼の10円チャリティーカレーが有名である。松本楼は1971年に過激派グループの投げた火炎瓶により全焼した。1973年9月25日に再建されたことを記念して、この行事は毎年9月25日に実施される。カレーソースは4日間煮込んだ本格的なポークカレーソースで、料金は10円に各自の志を追加して払う。売り上げは交通遺児育英会、日本ユニセフ協会に全額寄付されている。「10円カレー」は俳句の秋の季語にもなっている。

1863年(文久3年)、江戸幕府の遣欧使節の三宅秀が、船中でインド人が食事する様子を見て「飯の上へ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と日誌に記している。
1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。
1872年(明治5年)、カレーライスのレシピを記した本「西洋料理指南」(敬学堂主人)、「西洋料理通」(仮名垣魯文)が出版される。
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1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の洋食食堂「風月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1904年(明治37年)、東京・早稲田の飲食店「三朝庵」が、初めてカレーうどんをメニューに載せる。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。

2009年11月29日

うつ病の症状を理解するには

DSM-IVの診断基準は、2つの主要症状が基本となる。それは「抑うつ気分」と「興味・喜びの喪失」である。

「抑うつ気分」とは、気分の落ち込みや、何をしても晴れない嫌な気分や、空虚感・悲しさなどである。
「興味・喜びの喪失」とは、以前まで楽しめていたことにも楽しみを見いだせず、感情が麻痺した状態である。
この2つの主要症状のいずれかが、うつ病を診断するために必須の症状であるとされている。 これら主要症状に加えて、「抑うつ気分」と類似した症状として、「自分には何の価値もないと感じる無価値感」、「自殺念慮・希死念慮」などがある。

これらのグループの症状をまとめると「気分が落ち込んで嫌な毎日であり、自分には存在している価値などなく、死にたいと思う」という訴えとなる。
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「興味・喜びの喪失」と類似した症状としては、「気力の低下と易疲労性」、「集中力・思考力・決断力の低下」がある。このグループの症状をまとめると「何をしても面白くなく、物事にとりかかる気力がなくなり、何もしていないのに疲れてしまい、考えがまとまらず小さな物事さえも決断できない」という訴えとなる。

さらにこれらの精神症状に加えて「身体的症状」として、食欲、体重、睡眠、身体的活動性の4つの領域で、顕著な減少または増加が生じる。訴えとしては「食欲がなく体重も減り、眠れなくて、いらいらしてじっとしていられない」もしくは「変に食欲が出て食べ過ぎになり、いつも眠たく寝てばかりいて、体を動かせない」というものである。
DSM-IVでは、主要症状1つを含む5つの症状が2週間以上持続することが、大うつ病診断の条件となっている。

2009年11月24日

東大寺の境内は

東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。

南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。

南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。 大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。
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大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。

かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであった。西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。

2009年11月04日

鎌倉時代には

鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着床された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。

室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。
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浮世絵
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』や荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。

また、歌川広重(安藤広重)も北斎に後れること『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版し、広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。

2009年10月28日

湖沼に生育する水草には

湖沼に生育する水草には岸から沖に向かって、水深に対応した帯状分布が見られることがよくある。岸の水辺付近がなだらかであれば、湿地性の植物がはえる。水が溜まる辺りから、次第に抽水性で背が高くなるのものが生え、ある程度の深さまでを占有する。抽水性のものが入れない深さになると、水面を浮葉性の水草が占め、それらの隙間から沈水性の水草が顔を見せる。浮葉性の植物でも届かない深さでは、水草はほとんど見られないが、水底には車軸藻類の生育が見られる場合もある。車軸藻類も、水深による帯状分布を示すという。

なお、浮遊性の水草は大きな水面では風によって流されてしまい、生育できない場合が多い。多くの場合、抽水性の水草の生育区域で、その茎の隙間の水面に出るか、沈水性や浮葉性の植物が水面に繁茂して、水面の水の流れが滞ったところに出現することが多い。
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現在、日本産の水草には、絶滅危惧種として取り上げられるものが非常に多い。これには幾つかの理由が考えられる。
一つは、特に平地での水辺環境が近年非常に激しく変わったことが上られる。

水田には、水田雑草と呼ばれる一群の植物が生育していた。湿地性のものも、沈水性のものもあった。浮遊性のものは、水面をふさいで水温上昇を妨げるので、嫌われたこともある。これらの植物が、現在ではほとんど根こそぎになくなってしまった。これは、除草剤の影響が大きいものと思われる。
また、水田周辺の水路は、圃場整備などによって三面コンクリートの水路となり、多くの水中動物と共に、水草の成育環境が失われた。

2009年10月18日

都市計画法には

都市計画法には美観地区、風致地区などの規定はあったが、美観地区は制度として積極的に都市美をつくるとしながら、実際の事例には皇居周辺などの景観保護等に限られて運用されていた。このため、都市美協会は1930年から帝都美化委員会の設置を求める建議書を時の東京市に提出してから、これを毎年継続していた。一般の市街地では特段の規定もなかった。

高度成長期以降、日本人の生活も大きく変わり、伝統的な街並みや農村の風景も大きく変化し、飛鳥、奈良、京都といった日本の文化史上特に重要と考えられる地域も開発の波にさらされる。これらの地域の景観を守るため、民間レベルではナショナル・トラストが設立され、また制度としては古都における歴史的風土特別保存地区(1966年、古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)の規定や、伝統的建造物群保存地区(1975年、文化財保護法改正)の規定などが生まれた。ただし、これらもごく一部の地域を対象としていた。
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日本と同様の敗戦国ドイツでは、戦後の混乱期にあっても、自分らの文化や歴史を尊重し、景の復元を図っている。1960年代には景観に関する研究も多くなされ、その成果としてケヴィン・リンチはわかりやすさ、を景観基準のひとつにあげている。
高度成長の時代においては、建物は敷地をいかに有効に(高容積で)利用するかが優先され、建築基準法も社会的要請に応えるよう、次第に緩和規定が設けられていった。

2009年06月18日

安静時の振戦(ふるえ)、筋強剛(筋固縮)

安静時の振戦(ふるえ)、筋強剛(筋固縮)、無動(または、寡動)、姿勢保持反射障害の運動症状を主徴とする。結果として小刻み歩行・加速歩行などの歩行異常、前傾姿勢、表情が乏しくなる仮面様顔貌、小字症などの症状が見られる。また、無動のため言動が鈍くなり一見して認知症(痴呆)のようにみえることもあるが、実際に認知症を合併する疾患もあり鑑別を要する。また、うつ症状などの精神症状を合併する場合がある。他には発汗低下、起立性低血圧、便秘、排尿障害などの自律神経症状も見られる。

これらの症状をすべて合併したもの、または一部が見られる症候をパーキンソニズム(パーキンソン症状)とする。ADL(生活に必要な能力)を大きく障害するため福祉、リハビリテーションにおいても大きな課題となる。

治療 [編集]
現在唯一治療可能なものは薬剤性パーキンソニズムであり、何よりも原因となった薬剤の投与を中止する。それ以外のパーキンソニズムに対しては治療は対症的なもののみで、原因に対するものはまだ実験段階である。

パーキンソン病をはじめとして、これに属する疾患はいずれも完治は困難である。様々な医学的アプローチが検討されているが、現在のところ一時的な症状改善や進行を遅らせる程度にとどまっている。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
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ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

薬物療法 [編集]
薬物療法としては、ドーパミンの前駆物質であるL-Dopa(ドパストン®)、ドーパミン分泌を促進する塩酸アマンタジン(シンメトレル®)等のドーパミン作動薬を投与しドーパミンを増やしたり、効果を増強する、ドロキシドパ(ドプス®)の投与でノルアドレナリンを増やす、塩酸トリヘキシフェニジル(アーテン®)やアトロピンなどの抗コリン薬の投与によりアセチルコリンの影響を減らす、等が行われるが、徐々に必要量が増加する他に、症状の日内変動、日差変動も生じることが多く、症状の変動に合わせた処方の調整が必要である。 他にネオドパストン®・メネシット®(カルビドパ+レボドパの合剤、カルビドパは末梢でのレボドパの消費を防ぐ)、ドーパミン受容体刺激薬であるパーロデル®(プロモクリプチン)、ビ・シフロール®(プラミペキソール)やカバサール®(カベルゴリン)、MAO-B阻害剤であるエフピー®(セレギリン)などがある。 ドーパミン受容体刺激薬はジスキネジアやon-off現象が少ないといった特徴がある。

その他 [編集]
薬物療法以外では、姿勢反射障害、歩行困難等に対しては、足底装具の処方、リハビリテーション訓練などが行われる。

2009年06月01日

進化発生生物学

1980年代と1990年代には総合説は詳細な研究に注目した。進化生物学への構造主義的な視点はスチュアート・カウフマンやブライアン・グッドウィンのような生物学者からもたらされた。彼らはサイバネティクスと一般システム理論からアイディアを取り入れて、発生過程における自己組織化機構を強調し、進化にも直接作用する要因であると述べた。スティーヴン・ジェイ・グールドは発達過程における器官ごとの成長率の相対的な差が、進化における新しいボディプランの起源となるのではないかと考え、初期の進化理論の概念であったヘテロクロニーを甦らせた。遺伝学者リチャード・ルウォンティンはある生物の適応が最初から最後まで同じ選択圧の産物として誕生するのではなく、他の適応の偶然の産物として誕生することがあるのではないかと考え1979年に影響力のある論文を書いた。そのような構造の付帯的な変化を彼らはスパンドレルと呼んだ。のちにグールドとヴルバはそのような過程で得られる新しい適応構造を外適応と呼んだ。

発生に関する分子的なデータは1980年代から90年代にかけて急速に蓄積された。それは動物の形態的多様性が動物種ごとに異なったタンパク質によってもたらされるのではなく、多くの動物種で共通したわずかな一連のタンパク質によって起こされていることを明らかにした。それらのタンパク質は発生的な「ツールキット」として知られるようになった。このような視点が系統発生学、古生物学、比較発生学に影響を与え、進化発生生物学(エボ?デボ)と言う新たな分野を生み出した。この分野は現在表現型と発達的な可塑性に注目している。

例えばカンブリア爆発の基礎的な動物のボディプランの登場は、部分的には環境の変化に伴って起きた細胞同士の固有の組織化が原因で、そのあとの自然選択によって定着したかも知れないと示唆された。このようなアイディアは複数の著者によって論文集『Origination of Organismal Form』として出版された。

ダーウィンが提案した進化理論の中で、共通祖先からの進化、集団内の変異の変化によって生じる進化、種分化と分岐による生物多様性、適応進化における自然選択の役割は現在の進化学においても揺るぎのない枠組みとなっている。一方20世紀中盤に進化学に加わった中立説は分岐系統学に新たな証拠を提供し、自然選択の働かないランダムな進化過程のメカニズムを明らかにしようとしている。

現在、集団遺伝学、生態学、生物地理学、古生物学などの総合的な分野として発展してきた進化学は、さらに、分子生物学、進化ゲノム学(Evolutionary Genomics)、進化医学など、様々な分野の進展を取り込みながら、確立された科学の一分野として発展している。近年、発表される様々な報告や機構の提唱などは、基本的にダーウィンの考えた大まかな進化の枠組みを基盤として、さらに発展させる方向に進んでいる。

英語の evolution という語は元来ラテン語起原で、内側に巻き込んでおいたものを外側に展開することを意味しており、現在でも「展開」の意味で使われる。最初にこの概念が生物学に援用されたのは、発生学の前成説においてであり、個体発生に際して「あらかじめ用意された個体の構造が展開生成する」プロセスを指していた。今日の日本語で「進化」と翻訳されるような系統発生のプロセスを指す語としての evolution は、個体発生のこの概念を系統発生に対して援用したものである。みずからの進化論において定められた方向への「進歩」を意図していなかったチャールズ・ダーウィンは、当初かれ自身はこの語を積極的に採用していない。

19世紀頃は、進化は進歩と同義であった。その頃のヨーロッパではフランス革命や啓蒙思想などの普及によって、人間社会が発展のさなかであり、多くの人がそれが生物の進化と同じものであると主張していた。それは神による創造の原点こそが最高の状態で、歴史のプロセスはそこからの堕落による神からの離反であるととらえるキリスト教的生命史観のもたらす不安からの救済思想でもあった。20世紀には、社会的、文化的変化が進歩と厳密に同義であるという考え方は多くの社会科学者から受け入れられないものとなっている。また現在では一般的に、ダーウィンの進化の説明の解釈についても、生物の変化は進歩とは異なるものとして捉えられている。
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19世紀以降は、進化と言った時は、社会や文化のそれでなく、生物の進化を指す。この生物の進化とは、ある生物の集団がある世代から次の世代に代わるときのアリル頻度の変化を意味する。それは、簡単に言えば、すなわちチャールズ・ダーウィンの自然選択のアイデアに基づく種の進化論そのものでもある。「進化」は、単に事実を記述する語に過ぎないのであって、それ自体が価値判断を含むわけでなく、その意味で「進歩」とは異なるのである。にもかかわらず、進化と進歩の混同、事実と規範の混同はしばしば見られ、後述するソーシャル・ダーウィニズムもその誤解の産物であった。

現在の日本において、一般的に「進化」という言葉が使われている場合、学術的に厳密な「進化」ではなく「進歩・グレードアップ」というニュアンスで用いられ、本来の「進化」もそうであるかのように認識されている。

2009年04月28日

タイゴン

タイゴン(Tigon)(またはティグロン)とは、父がトラで母がライオンの雑種。 タイゴンとは逆に父がライオンで母がトラの場合はライガー(Liger)と呼ばれる。

タイゴンはライガーよりも一般に知られていないが、19世紀の終わりから20世紀にかけてはライガーよりも有名であった。

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タイゴンには両親どちらの特徴も見られることがあり、ライオンの母に由来する斑紋(ライオンの成獣には斑紋は無いが斑紋の遺伝子はあり、幼獣の時に現れる)を持つこともあれば、トラの父に由来する縞柄を持つこともある。 タイゴンの雄の鬣(たてがみ)はライオンの雄のそれよりも短くて目立たず、むしろトラの雄のひだ襟に近いものである。

タイゴンがライガーに比べあまり知られていない理由の一つは、トラの雄がライオンの雌の求愛行動を滅多に発見できないがために彼女の繁殖したいというサインを見逃してしまうからだと考えられている。 しかしライオンの雌は求愛には積極的であるため、現在のタイゴンの知名度の低さはむしろ、タイゴンがライガーと違って平凡な大きさであり、目新しさがないことによるようである。 しかし一世紀前ほどにはタイゴンは明らかにライガーよりもよく知られた動物であった。 ジェラルド・アイルズ(Gerald Iles)は著書At Home In The Zoo(1961)の中で、マンチェスターのベルヴュー動物園(Belle Vue Zoo)では3頭のタイゴンを見ることができたが、ライガーを見たことはないと書いている。 また、現在も中国で何頭かのタイゴンが飼育されている。

タイゴンの名称は1980年代、日本のスポーツ用品メーカーアシックスがスポーツシューズの商品名に使用したことがある。

2009年04月13日

キリスト教圏におけるムハンマド

カトリック、プロテスタント、英国国教会、正教会の違いこそあれ、キリスト教圏では、ムハンマドは「新たな契約を結んだイエスの後に、余計なものを付け加えた者」と映ることが多かった。そのため、古来よりイスラーム教に対して敵愾心を持つことも多々あった。その最も端的な例が、イスラーム教徒に奪われた聖地エルサレムを奪回する目的で編成された十字軍といえる。

イスラームについての正確な知識が乏しかった中世ヨーロッパにおいては、ムハンマドはサラセン人の信仰する神々のうちの一柱であるとも考えられていた。たとえばフランスの武勲詩『ローランの歌』においてマフム(Mahum, Mahumet)はテルヴァガン(Tervagan、語義未詳)およびアポリン(Apollin、アポロンが語源)とともにサラセン人多神教の主要三神であると歌われている。また、南ドイツの伝説的英雄ディートリヒ・フォン・ベルンは悪霊マフメット(Machmet)の子供であるという伝説も流布していた。フランソワ・ラブレーの『パンタグリュエル』では、マホン(Mahon)が悪魔のうちの一人として現れている。

またムハンマドは反キリストであるという説もあった。9世紀アンダルスのアルヴァルスはダニエル書7章23節から25節の『第四の獣は地上の第四の王国であろう。これはすべての国よりも大きく、全世界を併合し、これを踏みつけ、かつ打ち砕く。十の角はこの国から起こる十人の王である。その後に又一人の王が起こる。彼は先のものよりも強大であり、かつ、三人の王を倒す。彼は、いと高きものに敵して言葉を出し、かつ、いと高きものの聖徒を押しつぶす。彼は又時と律法とを変えることが出来ると考え、聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手に渡されるであろう。』というくだりに出てくる『十一番目の王』をムハンマドと解釈した。[7]

文学の世界でも、13-14世紀イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリの代表作『神曲』の地獄篇にムハンマドが取り上げられている。そこでは、ムハンマドはアリーとともに地獄の最下層近くに堕とされており、世界に分裂と抗争の種をまいた罪として、腹を縦一文字に切り裂かれて内臓を露出させるという描写をされている。また、1980年代末にイギリスの作家サルマン・ラシュディが、ムハンマドをスキャンダラスに描写した『悪魔の詩』を発表して、イランの最高指導者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーのファトワーにより死刑宣告を受け、世界に衝撃を与えたことがあった。


ユダヤ教におけるムハンマド
ユダヤ教では、イエス同様ユダヤ教の内容を歪曲した新宗教を作り上げた人間とされている。


バハーイー教におけるムハンマド
バハーイー教ではムハンマドを預言者の一人として崇敬している。しかし彼らが従うのはバーブおよびバハーウッラーの教えである。


シーク教におけるムハンマド
シーク教においてもムハンマドは預言者、聖者として高い尊敬を受けている。


ムハンマドと猫
ムハンマドは大変な猫好きであったといわれ、猫にまつわるさまざまな逸話がある。 ある日ムハンマドが外出しようとすると、着ようと思っていた服の上で猫が眠っていた。ムハンマドは猫を起こすことを忍びなく思い、服の袖を切り落とし片袖のない服で外出したという。

ムハンマドが猫好きであったとされることから、イスラーム教徒には猫好きが多いといわれる。とくに額にM字の模様が入った猫は「ムハンマドの猫」と呼ばれる。これは、あるときムハンマドが可愛がっていた猫の額に触れるとムハンマドの名前の頭文字である「M」の模様が浮かび上がったという逸話がもとになっているという。


征服者としてのムハンマド
ムハンマドは世俗的な意味においても世界史を塗り替えた人物である。アラビア半島を統一してイスラーム帝国の礎を築いた。ムハンマドは生涯26回も自ら信徒を率いて戦い、多くの戦いで先手を取り、ときには策略を用いて、何度も不利な戦闘で勝利するなどすぐれた軍事的指導者でもあった。また情勢を客観的に分析することができ外交も得意であった。征服者としてのムハンマドは冷酷かつ残酷な行動をとることも少なくなかった。


対ユダヤ教徒政策
イスラムのアラビア制覇は征服によるものばかりではなく、他部族への宣教、懐柔によるところも大きい。イスラーム教徒はもちろん、多くの非ムスリムもムハンマドを当時としてはたいへん寛容な人物であったとしており、コーランの初期の啓示からもそのことが確認できる。

しかしメッカとの交戦時代にはメディナ憲章で互いの信仰が保証されていたにも関わらず、アラブのユダヤ教徒との宗教的・政治的対立に悩まされ続けた。特にメディナへの移住以降、外来の自身とムスリムたちのメディナでの地位向上を巡って内外の勢力との対立を深め、ユダヤ教徒であるカイヌカー族などはメッカ側と内通するなどしていた。624年4月、ひとりのムスリムとカイヌカー族のある男性との殺人事件をきっかけに武力対立が顕在化し、ついに同族の砦を包囲陥落。かれらはメディナから追放された。これを機に、キブラの方向はエルサレムからメッカに変更された。

また、627年5月には同じくムハンマドの暗殺やイスラームへ改宗したメディナのアラブ人の謀殺を行うなど、対立が続いていたユダヤ教徒のナディール族とも戦闘になり、その集落を包囲陥落し彼らも追放となった。627年3月、ムハンマドはハンダクの戦いでメッカ軍の総攻撃を撃退し勝利した。その後ハンダクの戦いで敵対的中立を保っていたユダヤ教徒のクライザ族を討伐するためサアド・ブン・ムアーズ・アル=アウシーに軍の全権を委ねて派遣した。624年5月1日に、15日間の包囲攻撃のすえクライザ族は全面降伏したが、サアドは成人男性全員を処刑し、女性や子供は捕虜として全員奴隷身分に下し、その財産は全て没収してムスリムへ分配するという厳しい処断を行った。この時虐殺された戦士層の人数は1000人にのぼったと伝えられる。ムハンマドは「まさしく汝は神(アッラー)と神の使徒(ムハンマド自身)の意に適う判決を行った」とこのきわめて残虐な非人道的行為を全面的に支持したという[8]。続くハイバル遠征でナディール族が全面降伏した結果、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーの各ユダヤ教徒系のアラブ諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった[9]。

最終的にはアラビア半島から異教徒を駆逐するつもりであり[10]、異教徒に対する態度はむしろ自発的な改宗を期待し、他教を認めていた後のカリフたちのほうが寛容であったと指摘されている。ただし、アラビア半島からユダヤ教徒が完全に追放されたのはウマルの治世である。また開祖自身が宗教的迫害を実行したことは、後にイスラーム過激派が他宗教に対して暴力を振るう口実に利用されるようになったという面も指摘されている。

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